1. Run away. Paul tells Timothy to "flee youthful lusts" (2 Tim. 2:22). Joseph employed this admirable technique when dealing with Potiphar's wife (Gen. 39:12), and he did not know that in running from her arms, he was actually running toward a throne. This was not made immediately obvious to him, but it was a key element in that story. Would you excel in your work? Would you stand before kings? Would you be entrusted with great things? Then run away from every breach of sexual trust. You are running toward a high calling.
2. Don't run away. There is a kind of fastidious "denial" of lust that just pours gasoline on the fire (Rom. 7:7). Putting a pressure cooker lid on and cinching it down tight -- while keeping the heat on -- is a good way to get beans on the ceiling. See my post Dealing With Nuisance Lust, which you can check out here.
3. Don't get everything backwards. Remember that there will be a natural tendency to apply #1 when you should apply #2, and #2 when you should apply #1. Study your lusts. Undertake this study with the full knowledge that your lusts are liars, and so is the devil. Look at your lusts instead of looking with them. When you look with your lusts, you will see many curvaceous delights. When you look at your lusts, all you can see is a little chimp with bright red lipstick on. Find out what's actually going on. This is no contradiction.
Should we answer a fool according to his folly, or not? It depends on the circumstance (Prov. 26:4-5). If you learn how to study your lusts, you will soon discover that porn is a bundle of catechetical lies. Study your lusts (and not the object of your lust), and you will come to see the lying trick that makes porn attractive.
4. Make careful distinctions. Distinguish between mere physical appetite, which is certainly part of this equation, and lust, which is the foundational culprit. There is no such thing as a biological need to break God's law, and your "members which are on the earth" want to break God's law (Col. 3:5). That's the whole point. That's what makes it attractive in the first place. Biological appetite must be directed and disciplined (1 Thess. 4:4), while lust must be killed (Rom. 8:13). Don't capture your chief lust, and then act like Ahab did, inviting Benhadad up into his chariot (1 Kings 20:33-34). This is a basic lesson of sexual ethics -- never invite defeated lusts up into your chariot.
5. Recognize that lust is wired up to quite a few other attitudes of yours that you probably don't think of as sexual at all. But lust is not just a straight line desire (as the physical appetite is), but is rather part of a complex web of tangled relationships, competitions, envies, resentments, discontents, strivings, comparings, and sidelong glancing. This complex web involves lots of other people -- your father, your mother, your brothers, your sisters, your friends, your foes -- all of them connected in some mysterious way to that unruly creature in your loins. Fights come from lusts (Jas. 4:1), and lusts come from fights. Driven by lust, masturbation is not a solo act. Everybody is involved -- some as victims, others as co-perpetrators, and some as both. Lust is therefore inescapably social.
6. Lusts are connected to everything else, but so is self-control. Virtues and vices are like grapes -- they come in bunches. The fruit (singular) of the Spirit is nine-fold -- love, joy, peace, patience, kindness, gentleness, goodness, faithfulness, and self control (Gal. 5:22). Just as lust goes with envy, strife, discontent, and so on, so self-control goes with patience, kindness, and joy. Godly discipline is not hermetically sealed into one little compartment of your life. It affects everything, and spreads to everything. Godly discipline expands and grows. When you get up early to study, when you take on the kind of job that creates calluses, when you run three miles daily, you are becoming a certain kind of person. You cannot say that you would rather sit on a couch all day in order to fully concentrate on your sexual purity.
7. Recognize that sexual sin is not just a sin for which there will be consequences later (although that is also true). Sexual sin is itself a judgment for antecedent sin. Find out what that sin is, and deal with it. Stop floating down toward the falls. Work your way upstream. "The mouth of strange women is a deep pit: he that is abhorred of the LORD shall fall therein" (Prov. 22:14). Analogously, homosexual sin is not just a sin with consequences, it is itself a consequence of another sin (Rom. 1:18, 24). If you were to fall into a deep ditch, this would be a profound blow from God. So you should not just think of sexual sin as the bait that makes another trap work. Recognize also that something else was the bait for which this is the trap. "For a whore is a deep ditch; and a strange woman is a narrow pit. She also lieth in wait as for a prey, and increaseth the transgressors among men" (Prov. 23:27-28).
There are many other things that could be said, and some day, they probably will be.
日本の津波の映像は終末を思わせる。
水を動かす力というのは、私たちの想像を超える。太刀打ちできるものがない。私たちはた だ膝をかがめさせられる。
天の父よ、あなたは地の揺るぎ、海の高まり、波の荒れを絶対的に支配しておられる主権 者であられます。あなたのみ力のまえにおののき、あなたの測り知れないみ裁きとみ業の 前にひれ伏します。私たちは顔を覆い、あなたの全能のみ腕に接吻します。自分ではどう することもできず祈りのうちに地にひれ伏しつつ、この膝もとの地は何ともろいものか、と思 います。
神よ、あなたの聖い威光の御前にへりくだり、悔い改めます。一瞬のうちに、瞬きをするうち に、私たちも流されてしまってもおかしくありません。私たちは、同じ人間である日本の人た ちより、堅固な地がふさわしい者たちではありません。私たちには、この体と、家と車と家族 と、大切な場所があります。もし私たちの罪相応の扱いを受けたなら、誰がみ前に立ちえま しょう。一瞬のうちにすべてが無くなってしまうでしょう。それゆえこの暗闇の中、あなたにで はなく、私たち自身の罪に背を向けます。
日本のために、憐れみを請います。父よ、彼らが受けるべきものではなく、(あなたの)憐れ みです。
私たちを励ましてくださったではないですか。あなたは寛容さ、辛抱強さ、忍耐深さは、聖書 では何百回と語られているではないですか。あなたは何千回とみ裁きを抑えられ、不従順 のこの世を悔い改めへと導かれるではないですか。そうです主よ、あなたの道は私たちの 道とは異なり、あなたの思いは私たちのとは異なります。
ああ神よ、悪しき者にその道を離れ、不義の者にその思いを捨てさせてください。あなたが 情けをかけてくださるよう、私たち罪深い被造物があなたに立ち返ることをおゆるしください。 あなたはきっと、惜しみなくお赦しくださるでしょう。あなたの最愛のみ子、主イエスの名を呼 び求める者は、誰でも救われます。
よみがえりのキリストの傷ついたそのみ手によって、数多くのものを失い痛んだ心が癒され ますように。あなたは被造物の痛みを知らない方ではありません。私たちのすべてのため に、ご自身の御子をさえ惜しまずに死に渡されたからです。
イエスにあって、あなたは失うことを経験なさいました。イエスにあって、あなたは私たちの、 打ちのめさせられるような悲しみと苦しみを分かちあわれました。イエスにあって、私たちの 痛みの真中で、あなたは親身になってくださる司祭であられます。
父よ、この傷ついた民を、そっとお取り扱いください。懇願してください。勝ち取ってください。 お救いください。
そして彼らが非常に恐れている洪水が、彼らの上に恵みとなって怒涛のように流れ出しま すように。
どうぞ彼らが乏しい感覚であなたを裁くことなく、あなたの恵みのゆえにあなたに信頼しま すように。この神のみ業の背後に、まもなく(人々の)笑顔をみることができますように。
イエスの憐れみ深いみ名によって、アーメン
ある深く落胆した父親が、ゆっくりと死にゆく3歳の息子を2週間小児科治療室で看病していた。この2週の間、かなり驚いたことに、彼はある福音書を通読していた。彼は後に、「福音書は本当に実生活のためのものだ。」と私に書いてきた。
私は彼の言葉に当惑した。福音書のひとつがこの深い悲しみにある父親をどうやって助けることができたのだろうか。災難な出来事の中で神に信 頼することについての本なら役立つかもしれないと思った。けれど福音書が?どのようにしてそのような時に助けとなったのか?私はこの問いに数週間深く考え た。そしてある日、神の愛についてのメッセージを準備していた時、その解答に至った。その福音書の中で、この父親は神の愛がわかったのだ。
使徒ヨハネは次のように書いている。「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、 神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。こ こに愛があるのです。」(ヨハネの手紙第一4章9,10節)
私は、「もし神の愛を理解したいのならまず十字架を見なさい。」とよく話す。なぜなら十字架が神の愛の際立った表れだからである。神がご自 分の御子を私たちの罪のなだめのために十字架へと送られた。なだめ、とは良い聖書用語ではあるが、今日のクリスチャンにはほとんど理解されていない。おそ らく、私たちが耐えなければならなかった神の正義と聖なる怒りの矛先をイエスが十字架上で耐えてくださったということがこの言葉を考える上で最善の方法で あろう。
私たちすべては罪のため神の怒りを受けるに値する。未信者たちが日常的に犯す罪ならず、信者である私たちが毎日犯す罪であっても。しかし、 もし私たちがキリストに信頼するなら、神の怒りをみじんも経験することはない。イエスは、私たちの代わりに、神の怒りの杯を飲み干してくださった。
またヨハネは、神はご自分の愛のうちに、私たちにそのことを成すためにイエスを送ってくださった、と言っている。
熱心なクリスチャンたちが神の愛を疑いやすい主な理由は二つある。最も一般的なのは、どういうわけか、私たちに深い罪の意識がある時であ る。おそらくそれは生活の中で執拗に犯し続けてしまう罪のパターン、あるいは私たち全人類の持つ全般的な罪である。そのような時には私たちはしばしば、 「私のように罪深い者を神はどのようにして愛することができるだろうか。」と思ってしまうのである。
どちらの例にしても私たちは、深く罪悪感に悩ませている罪を耐えてくださっている十字架上のイエスを再び見上げる必要がある。それから私た ちは、「神は罪の知らない方を私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです。」(コリント人への手紙第二5章 21節)、ということを思い出す必要がある。神は私たちの罪を取り除いてくださった。すなわち、
そのことによって生じるにもかかわらない苦痛をキ リストに課し、完全な神の義を私たちに与えてくださった。神は、私たちが愛すべき者であるからではなく、神ご自身の惜しみのない愛によってこのことを成し てくださった。ヨハネが先に述べたように、「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださった。」のである。
二つ目の、私たちが神の愛を疑ってしまいがちな根拠は、不幸な境遇の中にいる時である。私たちは、「もし神が本当に私を愛してくださってい るなら、こんなことが起こることを許されるはずがない。」と思ってしまうかもしれない。そのような疑いの中にある時、私たちは再び、神がご自身の御子を私 たちのために捧げてくださった十字架上のイエスを見上げる必要がある(ローマ人への手紙8章32節)。最終的にはパウロが同じ箇所で「一体誰が私たちをキ リストの愛から離すことができようか。」という問いかけをし、その少し後でこう断言している。「どんなものも私たちの主、キリストから私たちを引き離すこ とはできません。」(ローマ人への手紙8章35~39節)
偉大なピューリタン、ジョン・オーウェンはかつてこのように書いている。「あなたが父なる神に課す最大の悲しみと重荷、そして最大の不親切 は、神があなたを愛しているということを信じないことである。」父なる神の最も大きな悲しみは、私たちが神の名を汚す恥ずべき罪を犯すことであるとオー ウェンが語るのであろうと予想していたかもしれない。確かに罪は神を悲しませるが、オーウェンは、神の愛を疑うことはもっと神を悲しませると言っている。
だから、もしあなたが自分の罪から、あるいは困難な状況から神の愛を疑いそうになったら、十字架を見上げ、神がすべての疑いを越えて十字架 上でご自身の愛を示してくださったことを思い起こすのだ。それだけでなく、困難を待ち構えるな。疑いと失望の時から自身を守るために、十字架を日々見上げ なさい。
しかしながら、神の愛の真実がすばらしいのと同じように、ヨハネは私たちを単に自身の楽しみだけに神の愛に浸ったままにはさせない。むしろ 彼は、とても鋭い適応をしている。「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(ヨハネ の手紙第一4章11節)その含意は、神が私たちを愛してくださったので私たちも互いに愛し合うべきであるというだけでなく、私たちは神が私たちを愛してく ださっているのと同じ方法で他者を愛すべきである、ということである。それは、私たちを神が罪と一般的な醜さがあるにもかかわらず愛してくださっているの で、私たちも互いを愛するべきだ、ということである。すなわち、いやな人もすべて。それは、私たちが相手の生活の中で罪を無視するという意味ではなく、罪 が私たちに向けられた時に、神がキリストにあって私たちを赦してくださったように私たちも愛する、ということである。(エペソ人への手紙4章32節)
神の、私たちへの赦しを基本として互いに赦しあう用意のできていることが、相手への愛の最大な表れであると私は信じている。イエスのたとえ 話の、赦さない使用人(マタイ18章21~35節)は、このテーマにおいてとても教訓的である。初めに出てくる使用人は主人に10000タラントの借金が あった。それはすなわち一般的な労働者の200000年分の収入に匹敵するものであり、返済不可能な額である。二人目の使用人は初めの使用人に100デナ リ借りていた。およそ1年の3分の1の収入に匹敵する額である。金額そのものが重要ではない。私たちの多くは1年の3分の1の収入の借金を帳消しにはした くないが、200000年分の借金に比べれば、1年の3分の1の収入分は大したことではない。
このたとえ話のポイントは、それぞれ私たちはこの初めにでてきた使用人である、ということである。私たち自身の罪のために神への負債は信じ がたいものである。返済不可能な額なのである。これに比べ、相手が自分に対して犯した罪の負債は、それ自体は大きなことかもしれないが、自身の神に対する 負債に比べれば、なんでもない。したがって、誰かが私に対して罪を犯した時には、実際にそう感じられてもそうでなくても、「しかし神よ、私は10000タ ラント負っているものです。」と応答するようにしている。そうすることによって、相手の罪を適切な見方でみることができ、神が私を赦してくださったように 惜しみなく赦すことができる。
テーブルトークの読者は皆、愛において模範的なコリント人への手紙第一13章に、ある程度なじみがある。しかし、4節から7節にある愛の記 述についてどれだけ多くの赦しや自制についてなされなければならないか気づいただろうか。愛はまず初めに自制と赦しによって表される、耐え忍ぶことなので ある(コロサイ人への手紙3章12、13節参照)。それは短気で怒りっぽいのと違う。それから愛は、すべてを我慢し、すべてを耐え忍ぶ。赦しと自制。それ らは異なった方法だが同じアイディアの表現である。そして私たちは神がキリストにあって私たちを赦してくださったように私たちも赦すべきなのである。
もちろん、神の愛であっても、私たちの愛であっても、赦しよりも愛があるのだ。神は決して私たちを見捨てず(ヘブル人への手紙13章5 節)、私たちのすべての必要を満たし(ピリピ人への手紙4章19節)、すべてのことを働かせて益とする(ローマ人への手紙8章28節)と約束してくださっ た。神は、時あるごとに私たちに課す訓練は、神の聖さにあずからせるための愛の表れであるとおっしゃっている。(ヘブル人への手紙12章5~11節)
同じように、私たちはキリストの体である互いを兄弟愛をもって愛するべきである。(ローマ人への手紙12章10節)つまり、互いの世話をし、励まし、祈り、そしてもし適切であるなら物質的にも助けるという意味である。(ヨハネの手紙第一3章16~18節)
明らかに、私たちは神が私たちを愛してくださっているのと同じ方法で、又は同じ程度に相手を愛することはできない。私たちは赦すことはでき るが、他者の罪の償いをすることは決してできない。そして神はご自分の愛において、主権を持っておられ、ご自身の目的をすべて成しとげるため、神の愛を表 現する力を持っておられる。私たちにこのことはできない。私たちはしばしば、自分が表すことのできる愛の範囲以上のことができたらと思ってしまう。しかし 私たちは、神との基本的な関係においても、他者との関係においても、決して神から私たちへの愛の視野を失ってはならない。ヨハネは、「神がまず私たちを愛 してくださったので私たちは愛する」と言っている。(ヨハネの手紙第一4章19節)私たちの愛の対象は定義されていないことに気づいてほしい。ヨハネは私 たちは神を愛すると言っているのであろうか、それとも他者であろうか。この内容からは、互いに愛するように勧めている。しかし私は、聖霊はヨハネに私たち の愛の多義的な対象を離れるように導かれたように思う。というのは、どちらもが真実であるからである。私たちは神が愛してくださっているその愛に浸ってい る時のみ神を愛することができる。そして私たちは絶えず神の限りない愛を熟考している時のみ互いを愛することができる。最愛の友よ、愛は神からくるのであ るから互いに愛し合おうではないか。
例えば、赦しをとってみよう。あなたは、罪悪感でさいなまれ大変惨めであるため、神の 赦しが欲しいと思うかも知れない。あなたはただ単に安堵が欲しいだけである。もし主 はあなたを赦して下さると、あなたが信じることができるなら、少々の安堵はあるかも知れないが、それが必ずしも救いとは限らない。もしあなたが感情的安堵 のために赦しが 欲しいと思うのであるならば、あなたは神の赦しを受けることはない。主は、主ご自身で はなく、ただ単に主の賜物を受けるためだけに赦しを利用する人には、それをお与えにならない。
あるいはあなたは病から癒されたい、いい仕事が欲しい、伴侶が欲しいと思うかもしれ ない。そして神がそれらを得ることを助けて下さるが、まずあなたの罪が赦されなけれ ばならないと聞く。誰かがあなたに、キリストはあなたの罪のため死なれたと信じなさい、もしこれを信じたなら、あなたの罪は赦されると言う。そのためあな たは、健康と仕事と 伴侶を受けるための障害を取り除くため、それを信じる。それは福音の救いであろうか? 私はそうは思わない。
言い換えると、赦しを通してあなたが願っていることは、とても重要である。あなたがどう してそれらが欲しいのかは、とても重要である。もし、あなたが被造物を満喫するためだ けに赦されたいと思うのであるなら、創造主は誉めたたえられないし、あなたは救われない。赦しとは、たった一つの究極な理由で、尊いもの―それは神との交 わりをあなた が楽しむことを可能にするものである。もしあなたが神との交わりを楽しむために赦しを 受けたいと思わないのであるなら、あなたは赦しそのものさえも受けない。神を、偶像を買うための通貨として利用することはできない。
同様に聞く―なぜ私たちは永遠のいのちが欲しいのか?ある人はこのように言うかも知 れない―なぜなら地獄がその代替のもので、それは痛いから。またある人はこのように 言うかも知れない―私の愛する人たちが天に行ったので、私も彼らと共にいたいから。他に、終わりのないセックスと食べ物を夢見ている人もいるかもしれな い。あるいはより 良い富を。これらすべての目標のなかで、欠けているものが一つある―神である。
永遠のいのちが欲しいというための救いの動機はヨハネ 17:3 で与えられている―「そ の永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエ ス・キリストを知ることです。」もし私たちが、神のうちにある喜びという意味なので、永遠のいのちが欲しくないと思うのなら、私たちは永遠のいのちを受け ない。もし私たちがキ リストより他に愛するものを得るため、キリストの栄光ある福音を利用するのなら、私た ちはクリスチャンであることを単純にごまかしているだけである。「良い知らせ」が良いと、神が最高の良きお方でない人に対して、証明されることはない。
ジョナサン・エドワードは 1731 年、彼の会衆に対してこのように説教した。赦しといのち の真の良さがあなたのうちによみがえってくるよう、以下をゆっくり読んで欲しい。
贖われた者は神のうちにある物体のすべての良きものを持っている。神ご自身が、贖 いによって彼らが所有し楽しむように導かれて来た、最上の良きお方であられる。主は 最高に良きお方であり、キリストが買い取られたすべての良きものの集約であられる。神は聖徒の相続財産であられる。主は彼らの魂の分け与えられた地であら れる。神は 彼らの富み、宝、彼らの食物、彼らのいのち、彼らの宿所、彼らの装飾また王冠、そして 彼らの永遠の栄誉と栄光であられる。彼らには天において、神以外に他には何もない。神こそが、贖われた者たちが死の際に受け入れていただき、この世の終わ りによみが えるべき、偉大な良いお方である。主なる神、主こそ天上のエルサレムの光であられ、「神のパラダイスの真中」で流れ、いのちの木が育つ、「いのちの水の 川」であられる。神の栄光ある優秀さと美しさは、聖徒の心を永遠に楽しませ、そして神の愛は彼らの永 遠の祝宴になる。贖われた者たちは事実他のものをも楽しむ。彼らはみ使いたちを楽し み、あるいはお互いを楽しむであろう。しかし、彼らがみ使いや、お互い、あるいは他の何ものをも楽しむのは、それらのうちにおられる神に見られる、喜びと 幸せをもたらすも のである。(ジョナサン・エドワードの説教:選集 [New Haven: Yale University Press, 1999 年], 74-75 ページ)
あなたと共に福音を通して神を味わっている、
ジョン牧師