神は福音である
例えば、赦しをとってみよう。あなたは、罪悪感でさいなまれ大変惨めであるため、神の 赦しが欲しいと思うかも知れない。あなたはただ単に安堵が欲しいだけである。もし主 はあなたを赦して下さると、あなたが信じることができるなら、少々の安堵はあるかも知れないが、それが必ずしも救いとは限らない。もしあなたが感情的安堵 のために赦しが 欲しいと思うのであるならば、あなたは神の赦しを受けることはない。主は、主ご自身で はなく、ただ単に主の賜物を受けるためだけに赦しを利用する人には、それをお与えにならない。
あるいはあなたは病から癒されたい、いい仕事が欲しい、伴侶が欲しいと思うかもしれ ない。そして神がそれらを得ることを助けて下さるが、まずあなたの罪が赦されなけれ ばならないと聞く。誰かがあなたに、キリストはあなたの罪のため死なれたと信じなさい、もしこれを信じたなら、あなたの罪は赦されると言う。そのためあな たは、健康と仕事と 伴侶を受けるための障害を取り除くため、それを信じる。それは福音の救いであろうか? 私はそうは思わない。
言い換えると、赦しを通してあなたが願っていることは、とても重要である。あなたがどう してそれらが欲しいのかは、とても重要である。もし、あなたが被造物を満喫するためだ けに赦されたいと思うのであるなら、創造主は誉めたたえられないし、あなたは救われない。赦しとは、たった一つの究極な理由で、尊いもの―それは神との交 わりをあなた が楽しむことを可能にするものである。もしあなたが神との交わりを楽しむために赦しを 受けたいと思わないのであるなら、あなたは赦しそのものさえも受けない。神を、偶像を買うための通貨として利用することはできない。
同様に聞く―なぜ私たちは永遠のいのちが欲しいのか?ある人はこのように言うかも知 れない―なぜなら地獄がその代替のもので、それは痛いから。またある人はこのように 言うかも知れない―私の愛する人たちが天に行ったので、私も彼らと共にいたいから。他に、終わりのないセックスと食べ物を夢見ている人もいるかもしれな い。あるいはより 良い富を。これらすべての目標のなかで、欠けているものが一つある―神である。
永遠のいのちが欲しいというための救いの動機はヨハネ 17:3 で与えられている―「そ の永遠のいのちとは、彼らが唯一まことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエ ス・キリストを知ることです。」もし私たちが、神のうちにある喜びという意味なので、永遠のいのちが欲しくないと思うのなら、私たちは永遠のいのちを受け ない。もし私たちがキ リストより他に愛するものを得るため、キリストの栄光ある福音を利用するのなら、私た ちはクリスチャンであることを単純にごまかしているだけである。「良い知らせ」が良いと、神が最高の良きお方でない人に対して、証明されることはない。
ジョナサン・エドワードは 1731 年、彼の会衆に対してこのように説教した。赦しといのち の真の良さがあなたのうちによみがえってくるよう、以下をゆっくり読んで欲しい。
贖われた者は神のうちにある物体のすべての良きものを持っている。神ご自身が、贖 いによって彼らが所有し楽しむように導かれて来た、最上の良きお方であられる。主は 最高に良きお方であり、キリストが買い取られたすべての良きものの集約であられる。神は聖徒の相続財産であられる。主は彼らの魂の分け与えられた地であら れる。神は 彼らの富み、宝、彼らの食物、彼らのいのち、彼らの宿所、彼らの装飾また王冠、そして 彼らの永遠の栄誉と栄光であられる。彼らには天において、神以外に他には何もない。神こそが、贖われた者たちが死の際に受け入れていただき、この世の終わ りによみが えるべき、偉大な良いお方である。主なる神、主こそ天上のエルサレムの光であられ、「神のパラダイスの真中」で流れ、いのちの木が育つ、「いのちの水の 川」であられる。神の栄光ある優秀さと美しさは、聖徒の心を永遠に楽しませ、そして神の愛は彼らの永 遠の祝宴になる。贖われた者たちは事実他のものをも楽しむ。彼らはみ使いたちを楽し み、あるいはお互いを楽しむであろう。しかし、彼らがみ使いや、お互い、あるいは他の何ものをも楽しむのは、それらのうちにおられる神に見られる、喜びと 幸せをもたらすも のである。(ジョナサン・エドワードの説教:選集 [New Haven: Yale University Press, 1999 年], 74-75 ページ)
あなたと共に福音を通して神を味わっている、
ジョン牧師